性犯罪自衛論について語るときに考えること

わたしよりもずっと辛い思いをした人が世の中にはたくさんいるし、性犯罪はあまり詳しい方ではない*1ので、適任なのかわからないが、とりあえず。

性犯罪にあったとき、人はなぜ傷つくのだろう

妊娠したり、性感染症にかかったり、同時に暴力も受けた場合を除けば、性犯罪で体はほとんど傷つかない。物理的には、確かに「減るもんじゃない」のである。性犯罪でつらいのは、精神的な痛みだ。まず、汚い手に触られたことがいやだ。あいつはわたしをどういう目で見ていたんだろう。いまも視線がべったりついているような気がする。あそこを通らなければ、会わなくてすんだかもしれないのに。もう全部いやだ。

相手に触られたこと、それ自体もいやだけど、性犯罪者の対象になる自分、チャンスを与えてしまった自分、それ自体にも嫌悪感なのである。特に女性の場合は、男性に比べて腕力がなく、逆らうのが難しい。自分の弱さを呪いもする。

「ありきたりで非現実的な自衛策」はなぜ性犯罪被害者をさらに傷つけるのだろう

非現実的な「自衛策」は、役に立たないどころか、被害者の行動をしばり、ない落ち度を作り出して加害者の罪を被害者に押し付けてしまう。

一人で歩くな? 別の方向に家がある友人に「自分を守れ」と付き添わせるのか?その友人だって一人で帰らなければならないのに?

夜道は危険? 塾や残業や部活があるのに?仲間が出ている飲み会に自分は出るなと?

車に乗ればいい? 歩けば数分の場所に毎回タクシーを使うの?スーパーで「○○円引き」のタグを探して買っているのに?

危険な場所は避けろ? 薄暗い道を好んで通ってきたわけでもなく、みんなと同じ道を通ってきただけなのに?この道は必ず通らなければならないのに?

大声を出せ? 自分が触られている様子がみなの目に触れるのに?体がすくんでしまっているのに?そもそも大声を出すことなんて普段ないのに?

反撃しろ? 相手の力は自分より強いのに?

露出の多い格好をするな? むしろおとなしそうな人のほうが被害にあっているのに、なぜ自分の好きな格好をしてはいけない?

そもそも、「〜〜するな」をすべて守ったところで、性犯罪を避けることはできない。たとえば、他に乗客のいる空いた電車の中でも痴漢にあうのだ。では、電車に乗ってはいけないのだろうか。

自分のことを支えてくれる人がいれば、理不尽なことを言われても、真に受けずにすむ。でも、痛みを一人で抱え込んでいるときに落ち度を追及されれば、言葉が染み込んでしまう。おかしな気もするけど、きっとそれが世間の常識なのだろう。そして、加害者に向けるべき怒りは自分自身に向けられる。歪んだ欲望の対象になる自分の体を憎むこともある。

「ありきたりで非現実的な自衛策」の厄介なところは、当事者の身にならなければ、実現可能にみえることだ。結果を知っていれば「○○しなければよかった」といくらでも言えるし、想像の中ならどんなに強い人間にでもなれる。性犯罪について知識のない人が想像した加害者の心理は、被害の経験のある人からすればお話にならなくとも、他の人にはむしろ自分の想像に近い分だけ説得力をもって映るだろう。そして、文句をつける人を、うるさい、非論理的だと非難する人さえでてくる。

性犯罪に関する議論を言葉の整合性で評価し、自分の主張を曲げることは負けだと感じる人に、被害者の痛みを理解しろ、自分の身に置き換えて想像してみてほしいと迫っても効果は薄く、無力感が募る。

不用意な自衛の啓蒙は加害者を免罪し、性犯罪を増やす

「○○なので襲ってもよいと思った」よく加害者が口にする文句だ。自衛を押し付ける人の論理が、加害者の言い訳を増やし、ためらいを軽くする。交通事故では、被害側にも要因がある場合、度合いに応じて加害側の賠償額は減らされる。同じことが性犯罪でもおきる。「自分に落ち度があるのだから」被害者はいたわってもらいづらくなる。罵声を浴びせられることすら、よくあるのだ。

それでも自衛策について語りたければ

性被害を減らす街作り、社会全体で取り組むべき対策、加害者を減らす対策などに加えて、自衛もひとつの有力な性犯罪の削減方法であることは確かだ。家族や恋人や友人など、大切な人を性被害から守るため、自衛策について話したくなることもあるだろう。また、単に興味をもったり、実例を聞いて怒りを覚え、新たな発生を防ぎたいと思う方もいるかもしれない。気をつけるべきだと私が考える項目を挙げてみた。


性犯罪について学ぶ

対象が何であれ、無知な人間の押し付けがましいアドバイスは迷惑だ。何よりも心に傷を与えることだから、発生条件だけでなく、被害者の受ける傷についても勉強しよう。文化による性犯罪の受け止め方の差や、各国の性犯罪に対する取り組みも知ろう。ネットは偏った情報も多いから、情報を得るには本がよい。

「被害者は悪くない」「性犯罪は社会全体で取り組むべき問題である」とのメッセージを共に発する

善意であっても、自衛策を語るだけでは、被害者を痛めつけ、加害者を免罪することがある。被害者がさらに自分を責めないように、加害者の言い訳を作らないように、言い方を工夫しよう。

この文章では主に知らない人間から受ける性犯罪を対象にしてきたが、実際には面識のある人間による性犯罪が多い。加害者の身元がはっきりしていて、被害者との共通の知り合いが多いならば、性犯罪が露見することの影響が大きくなる。被害者に責があるということにできれば、口を封じられるし、加害者が減免されるならばばれるのも恐くない。性犯罪を告発できない社会を作る加担をすべきではない。

自衛以外の策を念頭におく

教育からのアプローチや、加害者の矯正プログラム、性犯罪が起こりにくい街作りなど、自衛のほかにさまざまな性犯罪の抑制方法があり、一定の効果を示している。性犯罪は社会全体で防ぐべきであり、自衛は任意で行う最後の念押しでしかない。

自由を尊重し実用性を心がけよう

自衛策は行動の制限につながりやすい。また、実際にはなかなか行動に移せないことを提案されても、自分の無力さにいら立ちが募るだけである。自分がしないこと、できないことを人に勧めてはいけない。

押しつけない

人はさまざまな事情を抱えて生きている。自分には実行可能な対策に見えても、ほかの人にとっては無理かもしれない。いつも性犯罪にあわないことだけ過ごしているわけでもない。想像力を持とう。

謙虚になり、過度な一般化をしない

住む地域によっても、属する文化によっても、被害者によっても、性犯罪のあり方は違う。共通項はあるけど、「○○すればだいじょぶ」なんて絶対にいえない。自説が間違っていそうな予感がするとき、相手を強く否定する癖がある人、気をつけよう。性犯罪を無かったことにする卑怯な人々の列に加わらないように。


自衛に効果がないわけではないから、語るのはNGとはわたしは言いたくない。大切な人が危険にさらされているならば、少しでも危険を減らしたいのは当然だろう。しかし、少し間違えれば、役に立たないどころか被害者を傷つけ加害者を利することにすらなる。語るならば慎重に語ってほしい。さもなければ口をつぐめ。

*1:虐待とかPTSDのほうが詳しい