当事者でなくとも、批判はできる

当事者性は絶対のカードだ。

「お前にわたしの気持ちがわかるわけはない」と人を非難するのは、カイカンだ。攻撃性を満たしてくれるし、自分が正しいと優越感にひたれる。良心的な人たちは、つらい思いをしている人を諫めることに対しては罪悪感を感じるし、同情する。「踏まれたものにしか痛みはわからない」という言葉も、当事者から内省を奪っている。「わたし傷ついた!」「差別したでしょ!」「ひどい!」といわれれば、返す言葉もなく、もしかしたら自分はひどいことを言ったのかもしれないと考える。

しかし、非難する前に、本当に相手の行為は非難されるべきものなのか検証せずに、反射的に非難する事になれると、周囲がいやな思いをし不当にコミュニケーションが制限されることはもちろん、長期的には当事者本人にツケがかえってくる。

まず、どこにでも自分を傷つける要素を見いだすようになり、自家発電的にどんどん傷ついてしまう。『日本人の黒人観ーー問題は「ちびくろサンボ」だけではない』(新評論、ジョン・G・ラッセル、1991年)によると、ウナギイヌのぬいぐるみも黒人差別を端的に表しているそうだ*1

心霊写真で、そこら中に顔が写っているようにみえるのは、人間の視覚処理は特に顔を認識しやすいようにできているかららしい。つまり、この方は黒人差別を摘発するのに慣れすぎて、黒人差別を認識するための特別な回路が脳の中にできた結果、どこにでも黒人差別が浮き上がるようになったということだろうか。

それに、この手の人は距離を置かれてしまう。どこにスイッチがあるかわからないからだ。触れぬ神には祟りなしである。特に、真実は往々にして苦く、率直に告げれば当事者性を傘に着て激高される可能性も高い。

「新型うつ病」の界隈で起こっている*2。「会社に来ると気分が落ち込むんです」といい、休職してスキーや旅行や飲み会に精を出す人。叱ると、「うつ病の人間を叱るな!」と本人が言い返すものだから、おかしいと思いつつ対処できない。不公平な扱いに職場の不満もたまり、ギスギスしてくる。本人は白い目でみられる。

当事者が「わたしの気持ちはわからないでしょ!」と理不尽に非難するとき、当事者の痛みに同情し、一緒になって非難するのは、かえって当該当事者を甘やかすことになる。もちろん、無視したっていい。凝り固まって関わりあったとしても変わることが望めない人、そもそも関わりあうほどの縁もなく好意ももてない人、そんな場合が大半だし。

*1:裏をとれよまったく

*2:「新型うつ病」自体はメディアが作った未定義の用語であり、ここに書いたような鉄面皮な人間ではない人もいる。