意識障害の鑑別診断
微小念慮: 20150616について、フォロー。
この病歴は一つの疾患に決めうちできるほど特異的ではない。複数の疾患を挙げるべき(まじめに挙げれば10どころではすまない)。重篤な疾患、頻度の高い疾患は外さない。 グーグルさんに聞くのはいいけれど、網羅性を保証しづらいように思う。 症候学の教科書を使うのが王道。
意識障害の鑑別は aiueo tips と呼ばれる(ググれ)。すべて除外診断しよう。
これから行う検査と診断過程も含めて考える。フローチャートができるといい。
家族からの病歴聴取はすごく重要。実は大酒飲みであることが判明するかもしれない。すると、低ナトリウム血症とか低血糖とかウィルニッケ脳症とか外傷とかの鑑別が上がってくる。何かダイエットにはまったり、自炊をする人がいなくなって栄養が偏っていれば、ウィルニッケ脳症や低血糖の可能性が高まってくる。糖尿病ならケトン脳症や低血糖の可能性が上がってくる。実は透析患者だったら尿毒症とか。
症状発症のスピードは鑑別に重要。腫瘍による症状悪化のスパンは数週間〜数ヶ月程度だから、除外できる。
髄膜炎系の陰性所見が書かれていないのが気になる。項部硬直の所見は? 梗塞性病変では、大脳・小脳全体に及ぶ病変が表れることは考えづらいけど、出血性病変は大きいのができれば他の部位を圧迫する。(まぁこの病歴ならほぼ100%頭のCTは取るから除外可能でしょうね。。。)
小脳性運動失調は深部腱反射が低下するから、この症例の所見はすべて中枢性の神経の機能障害で説明できる。
実臨床において、神経内科医以外がとった深部腱反射の低下をどう判断するか、というのは難しいところ。腱反射は正確な所見を取るのがかなり難しい。亢進は手技が悪くても出るし、素人でも間違いにくいのだが、低下や消失をきちんと取るのはかなり難しい。そもそも高齢者は若年者に比べて深部圏反射が低下しているのはデフォだったり。
症候群で考えるのはそう間違っていないはず。症候群の単位で分類できれば、その症候群を示す疾患もわかる。
「思いやり行動」について
大学のレポート、せっかくなのでアップ。
京都大文学研究科と英スターリング大学研究グループの共同研究で、フサオマキザルに二つの異なる人間の寸劇を見せ、反応を観察したそうだ。一方の寸劇は、助けを求めた人をもう一人が助けるというもの、もう一つは助けを求めたものも拒否されるというものだ。そのあとに、助けを求めた人と求められた人が同時に食べ物を差出し、サルがどちらの人から餌をもらうかということを調べたそうである。すると、協力を拒否した人は選択されにくい傾向が見られたそうだ。フサオマキザルは広鼻下目に属す新世界ザルであるため、自身が思いやり行動を示すであろうことは他の研究からも推測できるが、この実験は他の個体の評価をしていることが明らかになったという点で新しいということだ。
フサオマキザルは遺伝子的に近い個体で形成されたグループで長期生活するため、思いやり行動をすることで自分にもかえってくる上、メンバーに思いやりを施すことで自分の遺伝子が子孫に受け継がれる可能性が上がるので、思いやり行動を伸ばすメリットは大きいのだと思う。しかし、思いやりを示す個体がよりコミュニティのメンバーとして受け入れられやすいということはわかったものの、これが先天的に思いやり行動を行う傾向の高い個体の生存確率を上げているのか、後天的な思いやり行動の学習を助けているのかということはわからなかった。人間社会からの類推やフサオマキザルの全般的な知能の高さからすると、思いやり行動が後天的に育成されている割合は大きいのではないかと考えるものの、確認には実験が必要だろうと思う。
また、米アトランタのエモリー大学霊長研究所のメスのオマキザルを用いた実験で、自分だけが餌をもらうよりも、家族や仲間と一緒に餌をもらう方を好むという傾向があることがわかったそうだ。しかし、知らない相手と組む場合、自分だけが餌をもらえる選択肢を選ぶことが多くなる。
思いやり行動が、一緒にいることの多い相手からお返ししてもらったり、血縁関係にいる相手の遺伝子を残そうとして行われるものだとすると、この結果は納得できるものだと考えられる。人間の場合も、家族や深い関わりを持つ友人の方が、赤の他人よりも多くの場合思いやることができるわけで、通じるものがある。また、多くの文化で、自分と外見的特徴が大きく異なる人を排斥し自分と似た人たちだけでまとまる傾向があるのも、自分の遺伝子が引き継がれる可能性を高くする行動かと思う。
より知的程度の低い動物に対して新世界サルは思いやり行動をとることができるし、ヒトはさらに赤の他人やまだ会ったことのない人に対しても思いやり行動をとることができるので、より道徳的になっているように見える。しかし、これはコミュニティの拡大に伴い協調的行動をとるメリットがデメリットを上回る範囲が広がっただけで、最終的には利己的な行動なのかもしれないと考えた。
医師とステレオタイプ
先進国においては*1HIVは適切な治療さえ受ければ健康に長生きできる病気になっているので、心あたりのある方はすぐに検査を受けましょう。また、特定のパートナー以外と性交渉を持つ場合は、妊娠の危険性がなくとコンドームをしてください。
漢方SUGEE!! 舌についた歯の跡とアレルギーのカンケイ
漢方は理論だけ学んでいると一見科学に反していて、すべてプラセボのように思えたりする。それなのに、西洋医学がまだ発見できていない機序を先回りして生かしていて、驚くことがある。漢方は人間のはらわたを覗かなかったけれど、ブラックボックスを外からいじり回した結果、西洋医学ではなかなか手の届かない深部のスイッチをちょうどいい加減で押すことがある。
漢方では、舌の形状や色がよく体の調子を反映していると考えられており、舌診が重視される。正常な舌は鮮やかなピンク色で、適度に苔がついており、滑らかでほどよく引き締まっている。体調がどこか悪いと、舌もどこかおかしくなる。
わたしの舌はぼてっと膨らんでいて両脇に歯の跡がついていて、気虚である。この体質の人は気*1が足りず、水が滞ってしまうらしい。だからむくむ割に、肌など必要なところに水がいかない。体内には水は十分ある癖に、行き渡ってないから足りない気がして喉が乾き、取った水でさらにむくむ。尿としてはうまく出てくれない。水滞は、むくみはもちろん、頭痛、めまい、倦怠感、関節痛などの原因になる。これらの症状は、湿度の上昇や低気圧でより悪化する傾向にある。
水滞は免疫のバランスを崩してしまうのもよくない。関節リウマチなどの自己免疫病やアレルギー性鼻炎にもなりやすいのだ。
どうすれば水滞が治るかというと、基本的には水を制限し気をアップさせればいいので、
- 冷たい飲み物や、コーヒーや緑茶などの体を冷やす飲み物を避けること。紅茶やほうじ茶や番茶ならよい。
- 温野菜など体を暖める食べ物を取ること
- やたらに水分を取らないこと。口寂しいときは水を口に含む程度にする。
- 運動すること
などが大切とのこと。これでどうにもならなければ、いよいよ薬に助けを求めることになる。
水滞には五苓散が定番なのだが、最近この五苓散は水を通過させるチャンネルのアクアポリンに対する遮断作用をもつことがわかった。五苓散には猪苓や蒼朮を含んでいるが、これらはそれぞれ亜鉛や水銀を微量に含んでいる。これが、どうやらうまい具合にアクアポリンを遮断してくれるらしい。 DOJIN NEWS / Review
アクアポリンにはサブタイプがあり、それぞれ発現している箇所が違うのだが、実はAQP5が免疫の亢進に関係していることがわかった。AQP5の発現が亢進すると、サイトカインが増えるのである。五苓散は、AQP5を遮断することで、間接的に炎症を抑えてくれる。 http://www.inm.u-toyama.ac.jp/jp/collabo/h23_download/report/23_2.pdf
つまり、水がたまると毒になる、というのは、だいたいあってる!とそういうことなのだ。漢方、SUGEE!
*1:わたしも勉強中なので確信がもてないけど、たぶん元気の「気」だと思っておけばよい
ペシャワールの少年 ~パキスタン 性犯罪の実態~
ペシャワールには大量に路上生活をしている少年がいるが、その90%は性的虐待にあっているということで、そのルポをNHK海外ドキュメンタリーでやっていた。日本の性犯罪を取り囲む状況についても、いろいろと参考になるところがあるので、記録。
ペシャワールの少年 〜パキスタン 性犯罪の実態〜|BS世界のドキュメンタリー|NHK BS1
パキスタンでは少年をレイプすることが悪いことであるという規範がないとのことで、少年を無理やり犯したことのある成人男性たちは、顔を隠すこともなくインタビューに応じる。イスラム教の教えを「女性は夫の所有物であり、外に出ず家にずっといるべき」「女性とは紳士的な付き合いしかできず、自分の性欲は押さえられない以上、一緒にいても怪訝な目で見られることのない少年を犯すのは仕方がないこと」と考えているようだ。一人の男性は、自分がレイプに加わったことを、「本人が誘っていたのだから仕方なかった」と正当化する。イスラム教は同性愛をそもそも禁じているのだが、そのことは知らないらしい。*1自分は敬虔なイスラム教徒であるという意識で、妻としては家にこもりコーランを唱える女性を求める。既に妻帯者であり、子供が数人いる男も、性欲のはけ口に自分の子どもと同じような年の男の子を犯すことに葛藤はないようだ。イスラム教の性や女性に過度な抑圧的な教義のせいで、歪んだ形で性欲が発散されることになっている。そして、被害にあった少年の一部は口封じのため殺害される。
バス運転手は仮眠を野外の宿泊所でとる。ベッドが道路の上に並べてあり、経営者はそこで休む人から料金をとることで利益を得ているのだが、彼は少年の性的虐待の斡旋もしている。そこら辺の男の子に、寝床と食事を無料で提供してあげると誘い、運転手に提供しているのだ。運転手はもっぱら少年たちのレイプを人生の楽しみにしている。レイプの対象となる少年には、8〜9歳ぐらいのものもいる。
路上生活をする少年たちがたむろする地域は、麻薬中毒者の多い地域でもある。少年たちは、最初は何もわからないうちにレイプされ、嫌な思いをするが、そのうちに何も感じなくなる。すると、ただでやらせるのも損だというので、料金をとるようになる。そうこうしているうちに麻薬をすすめられ、依存になり、売春で薬代を稼ぐようになる。麻薬依存になっていなくても、ゴミ集めで生きていけなければ体を売ることになる。路上生活をしている少年たちを援助するNGOはあるのだが、資金不足のため昼に身を寄せる場所と簡単な食事しか用意できず、夜はそれぞれの場所に帰らざるをえない。
ルポでは一人の少年に焦点があたっていた。麻薬依存から抜け出せず体を売り続けている13歳の少年なのだが、どうもリストカットをしているようだ。怒りを自分に向けていると本人が話していた。もっと話を聞くと、最近9歳程度の別の少年を、頻繁に性犯罪の舞台となる映画館に連れ込み、いうことを聞かないから乱暴をふるったとのことだ。性犯罪の被害者が性犯罪の加害者になるのはよくあることである。この国で成人男性が少年をレイプすることに抵抗を持たないのも、自分が被害者になってきたからだ。結局、この少年はペシャワールに居続けると自殺の危険性があるということで、NGOの助けで薬物依存者更正施設に入ることができ、HIVの検査もネガティブだったということで、希望のあるラストになっていた。
*1:なお、同性愛禁止は同性愛者の差別につながるため、わたしはこの教義を支持していない。念のため。
性犯罪自衛論について語るときに考えること
わたしよりもずっと辛い思いをした人が世の中にはたくさんいるし、性犯罪はあまり詳しい方ではない*1ので、適任なのかわからないが、とりあえず。
性犯罪にあったとき、人はなぜ傷つくのだろう
妊娠したり、性感染症にかかったり、同時に暴力も受けた場合を除けば、性犯罪で体はほとんど傷つかない。物理的には、確かに「減るもんじゃない」のである。性犯罪でつらいのは、精神的な痛みだ。まず、汚い手に触られたことがいやだ。あいつはわたしをどういう目で見ていたんだろう。いまも視線がべったりついているような気がする。あそこを通らなければ、会わなくてすんだかもしれないのに。もう全部いやだ。
相手に触られたこと、それ自体もいやだけど、性犯罪者の対象になる自分、チャンスを与えてしまった自分、それ自体にも嫌悪感なのである。特に女性の場合は、男性に比べて腕力がなく、逆らうのが難しい。自分の弱さを呪いもする。
「ありきたりで非現実的な自衛策」はなぜ性犯罪被害者をさらに傷つけるのだろう
非現実的な「自衛策」は、役に立たないどころか、被害者の行動をしばり、ない落ち度を作り出して加害者の罪を被害者に押し付けてしまう。
一人で歩くな? 別の方向に家がある友人に「自分を守れ」と付き添わせるのか?その友人だって一人で帰らなければならないのに?
夜道は危険? 塾や残業や部活があるのに?仲間が出ている飲み会に自分は出るなと?
車に乗ればいい? 歩けば数分の場所に毎回タクシーを使うの?スーパーで「○○円引き」のタグを探して買っているのに?
危険な場所は避けろ? 薄暗い道を好んで通ってきたわけでもなく、みんなと同じ道を通ってきただけなのに?この道は必ず通らなければならないのに?
大声を出せ? 自分が触られている様子がみなの目に触れるのに?体がすくんでしまっているのに?そもそも大声を出すことなんて普段ないのに?
反撃しろ? 相手の力は自分より強いのに?
露出の多い格好をするな? むしろおとなしそうな人のほうが被害にあっているのに、なぜ自分の好きな格好をしてはいけない?
そもそも、「〜〜するな」をすべて守ったところで、性犯罪を避けることはできない。たとえば、他に乗客のいる空いた電車の中でも痴漢にあうのだ。では、電車に乗ってはいけないのだろうか。
自分のことを支えてくれる人がいれば、理不尽なことを言われても、真に受けずにすむ。でも、痛みを一人で抱え込んでいるときに落ち度を追及されれば、言葉が染み込んでしまう。おかしな気もするけど、きっとそれが世間の常識なのだろう。そして、加害者に向けるべき怒りは自分自身に向けられる。歪んだ欲望の対象になる自分の体を憎むこともある。
「ありきたりで非現実的な自衛策」の厄介なところは、当事者の身にならなければ、実現可能にみえることだ。結果を知っていれば「○○しなければよかった」といくらでも言えるし、想像の中ならどんなに強い人間にでもなれる。性犯罪について知識のない人が想像した加害者の心理は、被害の経験のある人からすればお話にならなくとも、他の人にはむしろ自分の想像に近い分だけ説得力をもって映るだろう。そして、文句をつける人を、うるさい、非論理的だと非難する人さえでてくる。
性犯罪に関する議論を言葉の整合性で評価し、自分の主張を曲げることは負けだと感じる人に、被害者の痛みを理解しろ、自分の身に置き換えて想像してみてほしいと迫っても効果は薄く、無力感が募る。
不用意な自衛の啓蒙は加害者を免罪し、性犯罪を増やす
「○○なので襲ってもよいと思った」よく加害者が口にする文句だ。自衛を押し付ける人の論理が、加害者の言い訳を増やし、ためらいを軽くする。交通事故では、被害側にも要因がある場合、度合いに応じて加害側の賠償額は減らされる。同じことが性犯罪でもおきる。「自分に落ち度があるのだから」被害者はいたわってもらいづらくなる。罵声を浴びせられることすら、よくあるのだ。
それでも自衛策について語りたければ
性被害を減らす街作り、社会全体で取り組むべき対策、加害者を減らす対策などに加えて、自衛もひとつの有力な性犯罪の削減方法であることは確かだ。家族や恋人や友人など、大切な人を性被害から守るため、自衛策について話したくなることもあるだろう。また、単に興味をもったり、実例を聞いて怒りを覚え、新たな発生を防ぎたいと思う方もいるかもしれない。気をつけるべきだと私が考える項目を挙げてみた。
性犯罪について学ぶ
対象が何であれ、無知な人間の押し付けがましいアドバイスは迷惑だ。何よりも心に傷を与えることだから、発生条件だけでなく、被害者の受ける傷についても勉強しよう。文化による性犯罪の受け止め方の差や、各国の性犯罪に対する取り組みも知ろう。ネットは偏った情報も多いから、情報を得るには本がよい。
「被害者は悪くない」「性犯罪は社会全体で取り組むべき問題である」とのメッセージを共に発する
善意であっても、自衛策を語るだけでは、被害者を痛めつけ、加害者を免罪することがある。被害者がさらに自分を責めないように、加害者の言い訳を作らないように、言い方を工夫しよう。
この文章では主に知らない人間から受ける性犯罪を対象にしてきたが、実際には面識のある人間による性犯罪が多い。加害者の身元がはっきりしていて、被害者との共通の知り合いが多いならば、性犯罪が露見することの影響が大きくなる。被害者に責があるということにできれば、口を封じられるし、加害者が減免されるならばばれるのも恐くない。性犯罪を告発できない社会を作る加担をすべきではない。
自衛以外の策を念頭におく
教育からのアプローチや、加害者の矯正プログラム、性犯罪が起こりにくい街作りなど、自衛のほかにさまざまな性犯罪の抑制方法があり、一定の効果を示している。性犯罪は社会全体で防ぐべきであり、自衛は任意で行う最後の念押しでしかない。
自由を尊重し実用性を心がけよう
自衛策は行動の制限につながりやすい。また、実際にはなかなか行動に移せないことを提案されても、自分の無力さにいら立ちが募るだけである。自分がしないこと、できないことを人に勧めてはいけない。
押しつけない
人はさまざまな事情を抱えて生きている。自分には実行可能な対策に見えても、ほかの人にとっては無理かもしれない。いつも性犯罪にあわないことだけ過ごしているわけでもない。想像力を持とう。
謙虚になり、過度な一般化をしない
住む地域によっても、属する文化によっても、被害者によっても、性犯罪のあり方は違う。共通項はあるけど、「○○すればだいじょぶ」なんて絶対にいえない。自説が間違っていそうな予感がするとき、相手を強く否定する癖がある人、気をつけよう。性犯罪を無かったことにする卑怯な人々の列に加わらないように。
自衛に効果がないわけではないから、語るのはNGとはわたしは言いたくない。大切な人が危険にさらされているならば、少しでも危険を減らしたいのは当然だろう。しかし、少し間違えれば、役に立たないどころか被害者を傷つけ加害者を利することにすらなる。語るならば慎重に語ってほしい。さもなければ口をつぐめ。
当事者でなくとも、批判はできる
当事者性は絶対のカードだ。
「お前にわたしの気持ちがわかるわけはない」と人を非難するのは、カイカンだ。攻撃性を満たしてくれるし、自分が正しいと優越感にひたれる。良心的な人たちは、つらい思いをしている人を諫めることに対しては罪悪感を感じるし、同情する。「踏まれたものにしか痛みはわからない」という言葉も、当事者から内省を奪っている。「わたし傷ついた!」「差別したでしょ!」「ひどい!」といわれれば、返す言葉もなく、もしかしたら自分はひどいことを言ったのかもしれないと考える。
しかし、非難する前に、本当に相手の行為は非難されるべきものなのか検証せずに、反射的に非難する事になれると、周囲がいやな思いをし不当にコミュニケーションが制限されることはもちろん、長期的には当事者本人にツケがかえってくる。
まず、どこにでも自分を傷つける要素を見いだすようになり、自家発電的にどんどん傷ついてしまう。『日本人の黒人観ーー問題は「ちびくろサンボ」だけではない』(新評論、ジョン・G・ラッセル、1991年)によると、ウナギイヌのぬいぐるみも黒人差別を端的に表しているそうだ*1。
心霊写真で、そこら中に顔が写っているようにみえるのは、人間の視覚処理は特に顔を認識しやすいようにできているかららしい。つまり、この方は黒人差別を摘発するのに慣れすぎて、黒人差別を認識するための特別な回路が脳の中にできた結果、どこにでも黒人差別が浮き上がるようになったということだろうか。
それに、この手の人は距離を置かれてしまう。どこにスイッチがあるかわからないからだ。触れぬ神には祟りなしである。特に、真実は往々にして苦く、率直に告げれば当事者性を傘に着て激高される可能性も高い。
「新型うつ病」の界隈で起こっている*2。「会社に来ると気分が落ち込むんです」といい、休職してスキーや旅行や飲み会に精を出す人。叱ると、「うつ病の人間を叱るな!」と本人が言い返すものだから、おかしいと思いつつ対処できない。不公平な扱いに職場の不満もたまり、ギスギスしてくる。本人は白い目でみられる。
当事者が「わたしの気持ちはわからないでしょ!」と理不尽に非難するとき、当事者の痛みに同情し、一緒になって非難するのは、かえって当該当事者を甘やかすことになる。もちろん、無視したっていい。凝り固まって関わりあったとしても変わることが望めない人、そもそも関わりあうほどの縁もなく好意ももてない人、そんな場合が大半だし。